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「ジョーのおしゃべりトラブル」と言われている事柄に関するジョーの文書の後編(後編)

4【周囲の私の話に対する受け止め方とそれに対する私の考えとそれに対する周囲の反応について】

このように私としては有意義な情報を貴重な意見と共に伝える努力を最大限尽くしてきたつもりですが、いつでも、どこでも、誰からも、私が口を開く度に、屈辱的かつ人格否定的な発言及び行為が多く見られました[注7]。また、必ずしも否定的とは言えない振る舞いであっても、そっけない反応が多かったです[注8]。

「ジョーのおしゃべりトラブル」と言われている事柄に関するジョーの文書の後編(前編)

3【「ジョーのおしゃべりトラブル」と言われている事柄に対する私の認識について】

「1」で説明したとおり、今まで私は「ジョーのおしゃべりトラブル」と言われている事柄について自分がどのように考えているのかを説明することはしてきませんでした。ここでは、この事柄について私がどう思っているのかを理解していただくためにも、改めて、「ジョーのおしゃべりトラブル」と言われている事柄に対する私の認識を可能かつ必要と思われる範囲で説明します。

「ジョーのおしゃべりトラブル」と言われている事柄に関するジョーの文書の前編(後編)

2【この文書を作成し公表することにした理由について】

まず初めに、この文書を作成し公表することにした理由について説明したいと思います。

詳しくは後出の「3 」で説明しますが、そもそも私は幼い頃からよく話す子供であり、成長するにつれてそれがますます増長され、社会人になってからは歯止めがかからなくなりました。

私が話す内容はすべて世のためになるものと考えて喋っていたものばかりであり、それは決して、自分が好きなことを、場所と時間を選ばず、周囲などお構いなしに話していたわけではありません[注3]。

「ジョーのおしゃべりトラブル」と言われている事柄に関するジョーの文書の前編(前編)

この文書は、4月8日に小室圭様が公表された文書にトンマナが酷似しておりますが、それは単なる偶然であることを冒頭でお断りさせていただきます。

1【はじめに】

私は、長らく「ジョーのおしゃべりトラブル」と世間で言われている事柄について自分がどのように考えているのかを公に発信するということをほとんどしてきませんでした[注1]。

無口でクール、そんな風に思われたい

「僕を一言で表現するとしたら、どんな言葉を選びますか」

最近僕の周囲の人にこんなアンケートをとってみた。

最初に返ってきた答えは「鬱陶しい」。「Annoying」と英語で続けたのは、実は日本人。そして「KY」と日本語の表現を選んだのはアメリカ人。

つまり僕はうるさいらしい。

僕の芸は口

「多芸は無芸」とはよく言ったものだ。僕に相応しそうなことわざだが、若干違う。

まあ、どんなことわざも多少修正すればどんな人物でも状況でもピッタリ表現できる。例えば「花より団子」。これは芸術がさっぱり分からない他、いつ世界が破滅するか分からないと言う理由で、どの食事も最後の食事との前提で大食いする僕にぴったりそうだが、実はちょっと不完成。毎日の二度の食事も大切だが、何よりカジノが生き甲斐であるため、僕は「花より団子、より博打」と、ジョー流のことわざを使っている。

「多芸は無芸」もちょっと合わない。「多芸」とは多くの「芸」に通じている事を指すが、僕は「多芸」であると褒められたことなどない。反対にどうでもいいことばかり話している、している、考えている、と毎日のように皮肉られている。僕にとってジェームス・ボンドに関する知識、小説の読書、映画の観賞、漫画の乱読、家系図の作成、飲食、博打、パズル、将棋、ブログの投稿等々はとても重要なのだが、他人にとってはどれもためになる「芸」ではなく、「趣味」ですらない、ただの「無駄」らしい。

分かる、読める、書ける、しゃべれる

日本での生活が始まって二ヶ月。改めて実感するのが、分かる、読める、書ける、しゃべれるの違い。

「分かる」にはあまり苦労しない。日常生活の会話でぱっと理解できずに聞き流してしまうことが割と多いのに気がついたが、生活に支障は無い。日本で生まれ、家庭で日本語を使い、中学、高校と塾に通い、大学以降毎日日本の新聞を読んでいたのだから、これぐらいは感激するほどのことでもないと言われれば確かにそうだ。ただ自慢ではないが、趣味が政治、職業が弁護士、そして仕事の分野が経済関係なので、結構レベルの高い日本語が理解できていると思う。

後押ししているのが読書。最近はほとんど日本語の小説しか読んでいない。この三年間、日本語の本は100冊近く読んだろうが、英語の本は片手に数えられるくらいである。これは皮肉にも苦手な漢字に感謝するべきことなのだ。漢字のおかげで日本語は「見る」だけで意味がだいぶ分かるので、小説などすらすらと読める。英語は一言一言「読んで」いかなければならないので、最後に読んだ400ページ以上あるブッシュ前大統領の自伝を読み終わるのに2週間近くかかった。時間が貴重な身なので、読み物の「質」など結構どうでもよく、「量」が優先される。まるで絵本並みに「見る」だけで進める日本語の小説はそういう意味でとても魅力的。

「読める」あたりから僕の日本語のぼろが出る。「読める」ほうが「分かる」より困難という点は英語と大きく異なる。どちらかと言うと英語は逆で、ある程度発音のパターンを知っていれば大半の英語の言葉は「読める」。しかし、言葉や文章の意味はだいたい実際に意味を知っていなければ分からない。余談だが、高校時代に英語の語彙の少なさに悩んで相談した進路指導教員に、ラテン語のルーツを覚えることを提案された。なぜ英語でさえ習得し切れていないのに消滅した言語を学ばなければならないのか。この人は何も分かっていないなと思った。
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