「変ジャパ」とさえ認めてもらえない僕

最近国際基督教大学卒業の人から面白い話を聞いた。

外人・帰国子女が多いICUでは、「純ジャパ」、「半ジャパ」、「変ジャパ」、「ノンジャパ」と学生を区別していたらしい。彼女に説明してもらったところ、「純ジャパ」は日本生まれで日本育ちの「純粋」な日本人。「半ジャパ」は言葉どおり親の片方が日本人であるハーフ。「変ジャパ」は日本生まれだけれども外国生活が長くて普通の日本人からしたら「変」になってしまった日本人。「ノンジャパ」はただの外人。

さてこの中で僕はどれに当てはまるのか、という話になったら、「ノンジャパ」と結論付けされてしまった。

つまり僕は変な日本人にさえも見えない、らしい。

昔からそうだった。小・中学生の頃一時帰国した際、道を歩いているだけで随分と変な目で見られた。一時は僕の背が高いから、などとナルシスチック的に納得していたのだが、最近になってあの頃は東京を妹と歩き回っていた事を思い出した。妹といると自然に会話が英語になってしまうから、日本語を喋る日本人に仲間として見られないのは、当然といえば当然であった。

ただ、僕は日本語さえ喋れば日本人に見えるというわけでもないようだ。ニューヨーク勤務の時、中国人系カナダ人の同僚とよく近所の日本風うどん屋で昼食を取った。ある日僕が日本語で注文したら、脇に日本語の新聞を挟んでいたのにもかかわらず店員が英語で応答した。まあ以前から他の店でも似たような経験をしたことがあったので特に気に留めなかったのだが、列で次だった同僚には店員が日本語で話しかけてきたのは大分ショックだった。この瞬間、実は僕は全く日本語が出来ないのだと、同僚は思い込むようになってしまった。

さすがに日本に来てからは相手から勝手に英語で語りかけられるという事は(ほとんど)起こっていない。それは日本生まれで一応日本語が話せるから、数分間程度なら純粋な日本人っぽく振る舞えるからだろう。でもすぐに、そしてあっけなく襤褸が出る。特に日本の風習などが絡んでくると。

例えば数ヶ月前、友人と京都へ行って初めて京都の家庭料理というものを食べた時。メニューを見てもさっぱり分からず、カウンターに目をやるとおいしそうな料理がたくさん並べてあったので、欲しい物を指しながら頼む事にした。女将さんは人がよく、丁寧にひとつずつ料理を説明してくれたのだが、ある一品、説明して貰ってもまだどういう料理だか分からなかったので、「それなんですか?」と聞いたら、「ええぇ、OOO知らないの?あなた日本人?」と聞き返されてしまった。「帰国大人です」と答えた僕は、日本伝統の京都で「純ジャパ」の振りをする事には、やはり無理がある事を思い知らされた。

「振り」などと言うと「純ジャパ」ではないことを認めてしまうことになるが、米国生活が僕ほど長いと、さすがに「純ジャパ」であると主張する事に無理があるのは認めざるを得ない。更に僕の両親は(米国にいた時、ほとんど日本人と付き合わなかった変人ではあるものの)正真正銘、日本生まれの日本人であるから、僕は「半ジャパ」では無い。そうなると多少は日本人であると認められている「変ジャパ」で落ち着きたい所だが、僕に「変ジャパ」の話を紹介してくれた人、数秒間首をかしげた後、「ジョーさんはやっぱり『ノンジャパ』」でしょう」と言い切ってしまった。「変ジャパ」にしても僕は変すぎる、と言う意味だろうか。

その僕の変人度について面白い話がある。大学の後輩に僕と同様米国生活が長い日本人がいて、彼を通して知った普通の、いわゆる「純ジャパ」の共通の友人がいる。ある時この二人が食事をしていたら、いつしか僕の話になったらしい。純粋日本人の友人が「ジョーはアメリカが長いからちょっと変わっているよね」と話したら、その後輩、「ジョーはアメリカ人としても十分変わってる」と答えたらしい。それを否定できない僕は、この話を聞いて爆笑してしまった。

変な抗弁になるが、つまり僕は長期間の米国生活と関係なく変なのだ。よって、「変ジャパ」か「ノンジャパ」かを判断する際に、まずは僕が根本的に変人である事を考慮して頂きたい。違う言い方をすれな、例え日本で育っても僕はいずれにせよ変人になったであろうから、外国生活の影響による変人度は並の帰国子女と大して変わらないだろう。そういう考えの基に、僕は「変ジャパ」として認められてもいいのではないかと思いたい。

 
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